ミシンの音と父のノート。私が志免町で、子どもたちと一緒に学び続ける理由。
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こんにちは!個別指導Axis志免南里校、教室長のあなざわです。
日々教室で子どもたちと向き合う中で、机に向かう生徒たちに「目標を持って頑張ろう!」などと声をかけています。でも、ただ口で言うだけじゃなく、自分自身も必死に何かをやっていないと、子どもたちに示しがつかないな、といつも思っています。
「3時間勉強しよう!」と提案すると、「そんなにできないよ、忙しいもん」と返ってきます。確かに今の子は忙しい。でもふと思うんです。「君たち、自分のこと以外に、家のことや家族のことで何かを背負って忙しいのかい?……」と(笑)。
大人がスマホやNetflixを眺めながら「勉強しなさい!」とか言っても、子どもたちの心には絶対に響かない。だから私は、自分でもIT・通信の資格をアップデートし、行政書士の国家試験にも挑戦して、合格してきました。
「俺もこれだけやってる。だから、君たちも一緒に頑張ろう!」
そう胸を張って言える自分でいたい。それが、私が大切にしている姿勢です。
📺 テレビを見ながらでも、常に手を動かしていた両親
思えば、私の両親は常に手を動かしている人たちでした。
母は中学を卒業すると、風呂敷包みに行李(こおり)一つ背負って蒸気機関車に揺られて上京。新宿で住み込みの洋裁修行を積み、地元に戻って父と出会いました。
母の希望は「お酒もタバコもしない、農家の三男坊か四男坊と結婚すること」だったそうです。万が一の時に自分が手に職を持っていれば家族を支えられるし、農家の親戚がいればお米や野菜に困らないかも……という、戦後を生き抜くための切実で、ちょっとちゃっかりした知恵だったようです(笑)。
そんな母は、冬から春先にかけては布1枚からハサミで裁断し、深夜までミシンを踏んで、地元の子たちの学生服を仕立てていました。
「これがないと入学式に出られない子がいる、間に合わないなんて絶対にあっちゃいけない」
と、朝まで起きていたあの背中は、今思い出しても凄まじい責任感でした。夏場になれば、近くの工場の内職。コネクタに線を一本ずつ差し、基盤にはんだを乗せる。自転車に乗って、当時流行っていた「学研マイコーチ」の配達をしていた姿も、今もふと思い出します。
📓父が遺した、十代の頃の小さなノート
父もまた、工場の三交代勤務で定年まで働きながら、家に戻ればやはり母といっしょに内職に励む人でした。
「本当は絵描きになりたかった」——そんな話を父が亡くなってから聞かされました。周囲の反対で夢を諦めた父が遺した、十代の頃の小さなノート。
そこには、卵や花を育てて売ったわずかな小銭の記録とともに、
「絵具 ●円」、「キャンバス ●円」 と並んで、「弟に菓子 ●円」、「母に饅頭 ●円」 という文字が綴られていました。自分の夢を横に置いて、その小銭で家族を想った——それが、あの小さなノートに刻まれていた記録です。
戦中・戦後のことです。東北の田舎の農家で「家督」を継ぐ立場でもなかった下から2番目の息子を高校に出すなど考えられなかった時代。父は、祖父から田畑の一角を借りて花を育て、鶏を飼い、昼間は働きながら、自分の稼ぎだけで夜間の工業高校に通い、自ら道を切り拓いた人でした。
今の豊かな時代を生きる子どもたちに、こんな話をしても、すぐにはピンとこないし響かないかもしれません。
それでも私は伝えたいのです。「世の中には、そうやって自分の力で道をこじ開けてきた大人がいる」ということ。私自身、じっとしていられない性分なのも、野球中継をテレビで眺めながらでも常に手を動かしていた両親を見て育ったせいなのかいもしれません。
🛑 「もう遅い」なんて絶対に言わない
仕事で全国47都道府県を飛び回る中で、世の中の表には出ない場所で必死に踏ん張っている人たちの姿をたくさん目にしてきました。
だからこそ、この志免町での学習塾の運営に強い想いがあります。色んな世の中の仕組みを見てきたからこそ、勉強ができる・できないという表面的なことだけでなく、「自分で道を切り拓くための本物の粘り強さ」を子どもたちに伝えたいのです。
かつて両親が、誰かのために自分の手を動かして一つずつ形にしていったように。私も自分の手を動かして、お子さま一人ひとりの現状に寄り添いたいと思っています。
「受験勉強を始めるタイミングが遅くなってしまった」 「今からではもう間に合わないかもしれない」
そんな不安を抱えているお子さまや保護者の方に、私はただこう伝えたいです。
「もう遅い」なんて言いません。スタートが遅くても、やれることは必ずある。どこからでも一緒に組み立て直しましょう。
「俺もやるから、君たちも頑張れ!」——子どもたちにそう笑って言えるように、私も今日も全力です。
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